FMで、アンジェラ・アキ「手紙 拝啓 十五の君へ」を聞いた。
未来の自分と対話する構想は新しいものではないが、しつこくない曲の構成と親しみやすい声と相俟って(この「相俟って」は嫌いな言い方だが)いい効果を出していると思う。
今の15歳は大変だな。15歳の頃、そんなに苦しんでいなかった。むしろ今の私だ。ということは、私は今の中学生レベルの精神年齢か。
15歳。あの頃を思い出すと、ずいぶんひねくれたガキだったと思う。いやひねくれたかったのかもしれない。それに引き替え周りは皆大人だった。(今でも)
かつて15歳の頃を思い出して書いたことがある。
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中学三年の春、高校受験のプレッシャーから解放された頃、授業中よく窓の外の風景を眺めた。はるかに牧ノ原の丘陵が見える澄んだ空を鳥が飛んでいる。
飛ぶ鳥は自由の象徴というか古来から歌われてきた。
世の中をうしとつらしとおもへども
とびたちかねつ鳥にしあらねば
自由とは束縛の対語である。freeが奴隷状態との対語であることを時に忘れるように、自由と束縛が相補関係にあることも我々はしばしば忘れる。何らの束縛が無いところに自由を求める意志は生まれない。自由の象徴とはまさにその意味である。尾崎豊が自由を求める歌を歌うときにその背後にあったのは「濁世」であり抑圧者の存在であった。
しかし、その頃、私には漠然とした期待があった。唾棄すべき地域社会、言うなれば濁世、から逃れる第一歩を踏み出す時、かつて抑圧者であった者と対等になれる時、即ち抑圧を克服する時が近づいている、と思っていたのである。
成績や進学、音楽、文学、恋愛や性などが人生の重要問題になってくる。それと時を同じくして友達が同志となるそういったことを分かち合い、競い合うのは、具体的な個人である。それを一言に凝縮すると「友情」になるのだろう。
今思うと当時の友達との関係が私にとって友情の原点であり、原風景である。
我々はそういった友情を記憶の中にとどめているから、見知らぬ他人と協働できるのではないか。
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少なくとも年齢的には大人になったが、基本的にこの頃と変わっていないと思う。ただ、どうしようもない苦悩と諦めそしていい加減さが加わった。
アンジェラ・アキ「手紙 拝啓 十五の君へ」はもちろんこの年代の子どもにだけ向けたものではない。それは聞く人が決める。そこに詩が生まれるのだ。
私は逆に15歳の自分から今の私に送られた手紙のように聞いた。
しかし、例えば「世界で一つの花」みたいな最近の歌によくあるような自己肯定にはなじめない。自分の声を信じるって、そこまで人は完成された人格か?見続ければ見えてくる?人生に意味のない事だってある。今私がやっていることなど全く無意味だと思う。無理に意味を見いだすとすればジャコウネズミの心境に共感できるくらいだろう。
そもそも未来の自分と語ること自体自己の絶対化なのではないだろうか。そこまで自分を肯定できるのなら、詩も文学も哲学も必要ないのではないだろうか。
なぜ未来の自分にしか悩みを打ち明けられないのか?
それはまあ分かるとして、それでいいのか。
他者とコミュニケーションを最初から放棄していいのか?
友達の肩で泣け。
自分だけでは何も分からない。
友達のことばを信じて歩いていけ。
人は他者との関わりの中でしか成長できない。
それがこの歌を何回か聞いた後の感想だ。
途中「きぱもりだ」と訳の分からない歌詞があった。「Keep on believing」だった。
つくづく便利な時代だ。ただで聞けるし。
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