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May 2007

慙愧に耐えない

安倍首相は、松岡農相の死亡について「慙愧に耐えない」と述べたそうだ。

首相は農相に対してそんなに恥ずかしいことをしたのか?農相に任命した不明を恥じたのか

意味不明。

まさか、意味知らないなんてことはないだろう。夫人だったらともかく。

最近の首相はろくでもないのばっかりだが、国を売り渡すようなやつよりはまともか?

まあともかく、美しい日本のためにまなじりを決して慚愧して(慚愧するという言い方が明治時代にあった)くださいな。

こういう人が言う教育改革とは...反面教師をつくれということか

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創造的怠惰

il piacere dell'ozio creativo (創造的怠惰の喜び)

知り合いのある方に教えていただいたラベッロの音楽祭の標語である。

なんともいい言葉だ。

我々日本人は労働に対してキリスト教徒とは別の意味を見いだしてきたのではないかと思う。労働は原罪であり、またパウロの言葉のように「働かざる者食うべからず」なのである。怠惰は堕落であり罪なのである。
日本で勤勉が尊ばれたのはいつ頃からか知らないが、江戸の戯作小説を読んでいると、江戸の庶民には勤勉も怠惰も存在していなかったように思われる。
ろくに知りもしないことはこれくらいにしておくが、私が子供だった頃の日本社会、いわゆる高度経済成長の時代にも日本人は勤勉だったのではなく、一生懸命働く者は好きで働いていたのだと思えてならないし、働きたくない者もそれなりに社会に一定割合を占めていたと思う。少なくとも都市生活者はそんなものだったろうと思う。

怠惰は悪徳であると書いたが、果たして本当にそうなのだろうか。イタリア語のozioも英語のidlenessも必ずしも悪い意味だけではないようである。日本語の怠惰とはちょっと違うのかもしれない。
しかし、そのまま怠惰でもちゃんと成り立つと思う。細かい概念規定などする必要はないと思う。芸術でも文芸でも何か他の何かのために存在しているのではない。宗教の教義ではないのだから、社会一般の善に迎合する必要はない。怠惰で悪ければ、無為でも暇でもいい。

こういうことを言う人間を世間では「暇人」と言う。
大学あたりに巣くっている「テキ屋」などは、なんでもかんでも「生きる力」だの「人間力」だのと結びつけないと「売れない」と言ったりする。

「お忙しいですか」などと挨拶する。たいがい「忙しい」と答える。実際にそうであることもあるが、「暇だ」と答える勇気がないからなのではないか。
他人が暇そうに見えることがあるのは、その人のやっていることに意味を見いださないからだということはよくある。それを反照させると自分自身が忙しくないと自分が無価値になる。だから「忙しい」と言い続けなくてはならなくなる。つまり、「小人閑居して不善をなす」。小人だと自認しているのである。

創造的怠惰。イタリア語には定冠詞が付いている(らしい)。この音楽祭を指しているのだろう。
一般的な話にすれば、単に怠惰が創造的なのではないし、もちろん、何でも創造的でなければいけないということでもない。しかし、時間だとか成果だとか評価だとかの奴隷(物差し職人も奴隷である)になっていると創造的怠惰などという概念は無い。
大学では創造的でない怠惰が花盛りだ。知性を有機的に統合するカリキュラムの...などというのもこの類だ。

池袋の某所で「ゲゲゲの鬼太郎」展なんてのがあった。のぞいたら単におみやげを展示してあるだけだった。「なまけものになりなさい」と書いたTシャツが売っていた。買おうと思ったら¥2,500だったのでやめた。

日がな一日暇にしていると、運動しないと悪玉コレステロールがどうのこうのという話になる。

鬼太郎が妖怪である理由が分かった。

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痴漢冤罪はアメリカの謀略

痴漢冤罪の話を聞くと、日本の司法制度は崩壊したなと思う。
誰がどう考えたって「被害者」の言い分だけで罪が決定してしまうのはおかしい。何もしていなくても、駅で女性に腕を捕まれて「痴漢です」と言われたら、事実の如何に関わらず男なら誰でも犯罪者になる。こんな社会がまともな社会か?

これなら、誰かを追い落とす手段に使える。公権力に都合の悪いやつを粛正する手段にも使える。
「ミラーマン」もひょっとしたら・・・と考えるのは自然の成り行きだろう。
これは新しい形の恐怖社会だ。働く者を萎縮させ活力をそぐことは、日本の国力を減退させる。

で、誰が徳をする?それはアメリカ

何もかもアメリカの都合のいいように動いている。

規制緩和 大学院・大学の競争原理導入 医療制度改革 三角合併の解禁 りそな 新生・・・・・

いずれも日本を弱体化し、アメリカの支配下に置くためにやっていることのようにしか思えない。
我々は売国奴を支持して来たのだ。

痴漢冤罪みたいなおかしなことを許すのは何故か?答え:日本の国力を削ぐため。

陰謀史観みたいな話になったが、隣の「人権侵害大国」のようにオモチャみたいな裁判をやるほどにこの国は未開社会ではないとしたら、なぜこんなことが放置されているのか説明がつかない。

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校歌 ~日本三大校歌

大学生の時、明治大学に通っていた友人が「明治大学の校歌は日本三大校歌の一つ」と言っていた。
三大寮歌は聞いたことがあったが、校歌の方は初耳だった。

山田耕筰作曲のメロディーはたしかに校歌の中でも傑作の一つに数えられるだろう。
作詞者の児玉花外は、新島襄の弟子で北海道大学の前身札幌農学校に学び、早稲田大学の前身東京専門学校を卒業している。社会主義詩人の彼がどういう経緯で明治大学の校歌を作ることになったのだろう。

明治大学の校歌は良くできている。校歌のプロトタイプとも言うべき要素を備えている。
まず「白雲なびく駿河台」と学舎の位置を歌い、「権利自由の揺籃の」と法律学校たる学校の歴史を読み込み、「霊峰不二を仰ぎつつ」と定番のフレーズ「富士」に続く。

私自身の感想を言えば、特にいい歌とも思わない。山田耕筰にしてはつまらない部類に入ると思う。しかし、校歌はその学校の人たちにとって特別の意味を持つ。日本三大校歌と言う矜恃は尤もだ。

さて、残りの二つはというと、その明大生によると早稲田と北大だそうだ。これはどうだろう。早稲田はともかく北大の校歌はそんなに有名ではないだろう。さらに訊ねると「都ぞ弥生」と答えた。たしかに名曲だが、これは校歌ではない。寮歌だ。

あらためて三大校歌を検索すると、たしかに「明治・早稲田・都ぞ弥生」が出てくる。しかし、それはいずれも明治大学に関係したもので、一般に認知されているものとは言い難い。早稲田のサイトを見ると「早稲田・嗚呼玉杯に(一高)・都ぞ弥生」が三大校歌とある。これも変だ。「嗚呼玉杯に」も寮歌だ。

プロ野球興隆以前の六大学の強豪である早稲田・明治の校歌がそれなりに人口に膾炙するのは当然とも思える。そして、校歌のない東大をのぞき、やはりこの二校の校歌は出色と言えるだろう。
(わたしの記憶では、早稲田の校歌の名を高めたのは「天才バカボン」である。)

どうしてこのようなことになったのか分からないが、三大校歌と謳っているのは明治と早稲田だけのようなので、結局は権威付けに他を利用しているだけだろう。

妙な符合がある。明治大学校歌の作詞者児玉花外は、北大・早稲田の前身に学んでいる。単なる偶然だろうか。

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浪曲

今日はNHK-FMでずっと浪曲をやっていたらしい。
お昼頃、広沢虎造「森の石松三十石船」をやっていた。

  旅ゆけば駿河の国に茶の香り~♪
  ...江戸っ子だってねえ、寿司食いねえ...

子供の頃からなんども聞いたが断片的で、ちゃんときいたのは今日が初めてだった。
面白い。ただ、じれったい、くどい、話の展開が遅い。

解説者曰く、浪曲は50分が基本だったが、TV時代になって45分短縮され、さらに短くなってついには3分の流行歌になってしまった。
なるほど、流行歌の歴史がよく分かる。そして、流行歌の歌詞がstoryのダイジェストからpoemになっていったのもよく理解できる。
明晰かつ的を射たあるいは当を得た解説だ。

解説者はまた、アリアとレスタティーボにたとえていた。歌と語り。
しかしこれは源氏物語もこんなのではなかったか?文字面で見ると散文の中に韻文が挿入されているように見えるが、実際に読んでいくとまるでミュージカルだ。

歌でも韻文でも、自らの純粋性を主張すれば、物語とか文脈とかの従属性を排するのは当然の成り行きだろう。俳句なんかもこの類で、正岡子規が社会的に蓄積された「文脈」からの独立を期して、いわば不同不二の乾坤(小宇宙)をその17文字の中に求めたのも、西欧的ななんとかではなく、詩人の自然な欲求であったのだろう。

だけど、それで面白くなったか?

現代の我々はどれだけ共有する「文脈」を持っているのだろうか。

メニューヒンは「我々は自分のルーツから遠く離れるべきではない」と言った。
アイリッシュに惹かれる日本人の心境はまさにこれだろう。

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