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April 2007

校歌 〜建学の精神

公立の高等学校の校歌は、旧制中学から移行した地域の進学校は「俺たちは偉い。お国のために働くんだ。」とかエリート意識むき出し型か、商業高校のようにのどかな自然を歌ったもの、それが古いすがたである。新しいものは、友情だとか希望だとかを歌う。いずれにせよ、お節介な内容だと思って歌いたがらない生徒がいるだろう。

私学は、自らのアイデンティティすなわち建学の精神や理念を校歌の中に明確に歌い込んだものがある。
抽象性のレベルは様々だが、かなり高いところから歌った校歌の代表は次だろう。

 月かげのいたらぬ里はなけれどもながむる人の心にぞすむ(東山高校校歌)

法然上人御歌だそうだ。同じ歌詞が熊本の真和高校の宗歌にもみられる。
甲子園の高校野球でこの歌を聴いたときは「参った」と思った。立身出世だの国家隆盛だのを超越している。こういう精神の前に置かれたときに自らを恥じない人がいたらそれは人語を解さない者だ。

ここまでいかなくとも、その置かれた時代の危機感を反映したものもあり、それはそれなりにアイデンティティを保とうとする意識が明確である。

 外つ国々の長きをとりて 我が短きを補ふ世にも いかで忘れむもとつ教えは(國學院大学校歌)
 東西古今の 文化のうしほ 一つに渦巻く 大島国の (早稲田大学校歌)

國學院が何かネガティブな響きがあるのに対し、早稲田の校歌は楽観的というか楽天的な気味がある。これがそのまま今日の偏差値の差になっていると言ったら拡大解釈であるが、自省的であることが社会においてどんな意味があるのかを考えさせてくれる。(有り体に言えば、出世したいなら無神経にしくはない)

この点で女子の学校は曇りがない。

 常磐の松の下かげに開く教えの庭桜 君がめぐみのつゆ受けてにおえやしまのそとまでも(実践女子学園校歌) 
 日本女性の美徳得て 四海の人と睦みなむ(和洋女子大学校歌)

こういう建学の精神が今日どう扱われているか知らない。しかし、我々が自分が何であるかを見失ったように感じた時、思い出すのは父祖の道である。

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銃乱射事件で中国は

バージニア工科大学で起きた銃乱射事件の犯人が、当初中国人留学生と誤って報道されたことについて、中国外務省の劉建超報道局長は「無責任な報道であり、ジャーナリスト道徳に違反している」と強い不快感を示す談話を発表した。中国は「深刻な影響を取り除く」よう要求したと伝えられている。

な~んだ。中国は被害にあった人のことなんかどうでもよかったんだ。
中国は被害者とアメリカ国民に哀悼の意をひょうしていたのに、それは結局自己保身のためだったんだ。

犯人がどこの誰であれ、まずは被害者を憐れむのが人間の普通の情なのではないか。

それに深刻な影響って何だ。言いがかりか、自らのやましさを暴露したんじゃないのか。
日本だったらこんな反応はしないだろう。日本人でなくて良かったという気持ちはあってもそんなことは口にしないだろう。

もし犯人が日本人だったら、中国はそれを利用しようとしただろう。さもしい根性だ。

日本人は、かつて同胞がアメリカで銃の犠牲になり、その遺族が銃廃絶の運動をしてきたことをまず思い出すだろう。その声が聞き入れられれば、あんな惨劇は無かったろうと残念に思っているだろう。

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「相田みつを」イデオロギー

政府の教育再生会議は学校現場に競争原理を積極的に導入することで一致したそうだ。競争原理の導入は教員だけでなく、学校間や地域間にも実施するよう検討するらしい。

愚かなことを言い始めたものだ。

公教育の目的は何だと言う前に、教員や学校の「能力」を何ではかるというんだ。(どっかの飲み屋の親父が言い出したことなのだろうが、飲み屋と学校を同一視する発想が貧困だ。いや、実は飲み屋でも学校でも本質的には変わりがない。評価に汲々としているところで学びたくもなければ飲みたくもない。)結果として、給与や予算・税制などで差を付けるというのだから、相対的に評価するということになる。教育の成果を数量化、定量化しようということだ。
これは恐ろしいことだ。教員だけでなく生徒をも商品化することだからだ。
学校や教員を自由に選べると言えば聞こえはいいが、それは同時に選ばれることだ。それに気づかない愚かな大衆がこの愚かな政府を支える。

「画一的」「詰め込み」「知識偏重」「管理教育」。教育界は80年代、バブルに向かう頃マスコミの猛攻撃にさらされた。それに萎縮したのか、行政も含め日本の教育界は迷走を続けた。その結果が、学級崩壊、学力低下だ。
これは教育関係者だけの責任ではない。成長と成熟の価値を見失い、その時点その時点のみを肯定する絶対的自我を社会が承認した。これをある人は「相田みつを」イデオロギーと呼んだ。

しあわせは いつも じぶんの こころが きめる

名もない草も 実をつける いのちいっぱいに 自分の花を 咲かせて

私は相田みつを自体が何らかのイデオロギーを持っているとは思わない。彼の詩が無秩序な自我の増殖を肯定しているとは思えない。むしろ苦悩と苦闘との末に到達した境地なのだろうと思う。しかし、不幸なことに、そのプロセスは共有されること無しに、皮相のみが受容された。
しあわせは いつも じぶんの こころが きめる (=うっせーよ、このおやじ)
名もない草も 実をつける いのちいっぱいに 自分の花を 咲かせて(=理由はないけど俺様が一番。他人はバカ)

そして、そんな風潮を反映して、歌は世につれ世は歌につれ...

小さな花や大きな花 一つとして同じもんはない ナンバーワンにならなくていい もともと特別なオンリーワン

競争社会に疲弊する者の心に響くだろう。ちょうど「マドンナたちのララバイ」のように。
しかし、最初から自己を他者との比較の中で相対化し劣等感・優越感の相克に苦悩した経験のない者にとってはどうだろう。幼稚な全能観を克服できないで終わるのではないか。
これは不幸なことだ。世の中はどんどん競争が激しくなり、競争による序列化が進んでいる。なのに、それに目をつぶらせるようなことをしていたら、素直な純粋な者ほど社会に適応していけなくなる。

しかし、だからといって、子供の頃から選別され格差社会を肯定するような教育を行っていいということにはならない。これは、かつて戦場に若い命を散らせたことと同じだ。

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アメリカを理想化しすぎ

日本人はアメリカを理想化しすぎている。そうしたほうが楽だからだがそろそろやめた方がいい。

いつぞや、「ミスター・スリム」とかいう「ミュージカル」があって、それを深夜放送ラジオのキャスターが絶賛していた。しかし、見に行く気はさらさらなかった。
「ねえアメリカに行かない?日本には赤と白しかないけど、アメリカには青もあるじゃない。」

あるTV番組で、アメリカから帰国した中学生が日本の学校でいじめにあって、自分お部屋の星条旗に向かって敬礼しながら涙を流すシーンがあった。

自由と平等の国。

しかし、ブッシュの政策や最近のヒル国務次官補の間抜けさ加減が真の姿だろう。
そのうちもっと出てくる。
別にアメリカはアメリカで勝手にやればいい。だが、日本人はもっと自分の頭で考えた方がいい。何もかもアメリカに依存しすぎだ。

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反日は日本の利益

歴史認識の件は、反日の口実に使われる。
しかし、韓国と中国とではいささか事情が異なる。

韓国はそれなりに成熟しつつある。
そして厄介な「親戚」がいる。この親戚はどの政権にとっても頭痛の種だ。それでも親戚は親戚、しかも隣に住んでいる。真正面から対決したら家庭を破壊されかねない。家族の不満をそらすにはちょっと離れた他人を悪者に仕立てて、家族の親戚に対する目をそらすのが「喧嘩」を避ける効率的な方法だ。そこで反日。

中国は、昔から革命で政権が倒れている。
国内で格差が拡大している。このままでいけば確実に暴動が起き、そのまま手を打たなければ革命に発展する。共産党政権は崩壊する。内部の不満をそらす手段は韓国の場合と同様、外憂を作り出すことだ。そこで反日。

どたらにしろ、日本を悪者にすることで国民の目をそらしているわけだが、これは日本にとってもうまみがある。現状維持が相互の国益にかなうからだ。
朝鮮半島有事はかつての特需をもたらすとは誰も考えていないだろう。とばっちりをくうだけだ。それもかなり深刻な。中国も同様。もうけさせてもらっている状況をできるだけ長く続ける方が日本経済のため。
黙認しておけば、貸しもつくれるし、適当なガス抜きになる。日本にとって反日は短期的に利益がある。

ところがそれは思惑通りにはいかなかった。

マイナスの感情は対立しかうまない。反日は、嫌韓・侮韓、嫌中・侮中の感情をうんだ。これはお互いに幸せなことか?

アジアの指導者は道を誤った。お互いの理解と尊敬で関係を築くべきだった。

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日韓・日中の歴史認識

日韓・日中の歴史認識のズレは、史観の違いが基底にある。

日本人は「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉のとおり、勝者の都合で歴史が記録されることをよく理解している。したがって、正しい歴史とは多くの客観的事実の積み重ねの前に、事実であるかどうかの認定に重きを置く。新たな事実が判明すれば修正する。
また、そこには異なった見方があることを知っている。なぜなら、事実の認定には「解釈」という主観的なプロセスがあることを学んでいるからである。もちろん、主観的だからいい加減だということではない。歴史とは人間の知性で構築されていくものだということなのである。これは「真理」全般にいえることだ。
したがって、語られる「歴史」をそのまますべて真実だと思わないのが日本人の「史観」だ。

ところが、中国では正史が存在し、今現在でも共産党が編むのが「正史」だ。異論など認めない。まして「夷荻」の言うことなどはなから取りあう気はない。韓国も似たようなものだが、中国よりは近代的な歴史観が存在するようである。

韓国や中国が、歪曲などと日本の歴史認識について批判しても、確かな事実に裏付けられた実証的なプロセスを経たものでなければ一切耳を傾ける必要はない。
まがい物の骨董品をつかまされる位はお笑いぐさですまされるが、国家単位でやられたらたまったものではない。(中国は、国家だけでなく民族単位で実際やっている)


日本の歴史研究が絶対とは言わないが、少なくとも歴史をどう記述すべきかという意味での史観の持ち方はそれなりの水準を保っていると思う。

たとえば、ある記述が歴史教科書から削除されたり、記述が訂正されたりするのは、科学的に立証されないからで、否定するのと同じではない。医学が民間療法を認めないのは科学的に効果が証明できないからであって、必ずしも否定しているのではない。医学は科学である。このことを忘れてはいけない。歴史学も同様である。

しかし、一方で歴史はいかにして記述されるものか、そしてどのような見方が存在し、その可否を判断するにはどのような手続きを踏まねばならないかを学校でよく教えるべきだろう。

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