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January 2007

母親と息子のペアルック

夕方母と西友に行った。入り口のわきのチェックのスカートに目がとまった。

幼い頃、同じような生地で母がズボンを作ってくれた。同じ生地で自分のスカートも作った。
それを見て「僕のあまりで作ったんだね」と言ったら、周りの女性は笑っていた。その笑いの意味が当時分からなかった。

そんなことを言ったら「誰にでも幸せな時があったんだね」。

いや、幸せは今でも続いているんだよと言いたかったが言葉にならなかった。

時々、母親と息子のペアルックを見かける。そして幸せな気分になる。

幸せとはたいがい過去にある。

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職業差別

中学校の時、将来は学校の教師になりたいと思った。中学校はイヤだ、優等生じゃなくちゃなれないから。高校も気が進まない、学校によって差が大きすぎるから。小学校は無理だ、体育や音楽は指導できないだろうし、あんなに多くの科目を教えるほど器用ではない。
結局、先生になるとしたら大学くらいしかなさそうだ、という結論に達した。
理由はそれだけではない。教師で周りからあれこれ言われないほどのステータスといったら大学だろう。そう思ったからでもある。

かつて近所に高校受験の塾があった。小学校5年か6年くらいからそこに入って、中には高校に行っても通う生徒もいた。優秀な生徒はほとんどそこに行った。
私も塾に行かないと不安になってきて、母がそこに頼みに行った。

おたくのような職業の家庭の子供は長続きしないからお断りする。

父は憤慨していた。しかし私はまたかと思っただけだった。

現在、入学試験の面接などで親の職業を聞くのは禁止という例が多くある。心情的には賛成だ。親の職業と本人の学力とどう関係がある?
そもそも、どんな職業に就いていようが、裏社会でもなければ関係ないではないか。

しかし、同じ職業に就いている人には似たような雰囲気がある。価値観が近いし、そこに向かう道筋が似ているからだろう。医者が医者らしく、役人が役人らしいのは、職業選択に個人の意志が占める割合が大きくなった今日、同じような価値観をもった人たちが同じ職業に就くからだろう。
昔はそうではなかった。世襲もあるが、スタートラインの違いは今以上に大きく絶対的でさえあった。
同じように、どんな環境に生まれるかも本人の意志とは別だ。
環境が個々人に与える影響は大きい。環境は人を作る。だが、教育も環境である。

件の塾は、高校受験のためののものである。与えられた問題を解く、従順で素直な生徒の方がやりやすい。物事に批判的な目を持った生徒は邪魔者である。
その塾では、掃除当番を決めていて、学校の掃除をさぼって塾の掃除にいく生徒がいた。これも、物事を疑いなく受け入れる「人格」を作るのに必要な儀式だったのだろう。

こういう塾を地域社会は受け入れていた。
上からの恩恵に頼り、従順にというよりも盲目的に上からの意向に従う人間たちの社会に。そして、当人たちにはそれに気づかない。一生。
これは何を引き替えにしたか?歴史を学べば今自分たちがやっていることと同じ前近代的なある身分制度があったのに気づくはずだ。

しかし、それはそれで幸せなことだろう。

魯迅『吶喊』自序より
かりに鉄の部屋があって、まったく窓がなく、こわすこともとてもできないとする。中には、たくさんの人たちが熟睡している。間もなく窒息してしまうだろうが、昏睡のまま死んで行くのだから、死の悲哀を感ずることはない。いま、君が大声をあげて、多少意識のある数人を叩き起こせば、この不幸な少数者に救われようのない臨終の苦しみをなめさせるわけだ、それでも彼らにすまないと思わないか?

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校歌 ~校風

Yahooの掲示板を見ていたら、自分の大学と他の大学を同等に比較しているのがかなりあった。
この心理はよく理解できる。自分というものが何であるかを考えるのに、他との比較が必要であると言うことである。「地球よりも重い個人の尊厳」だとか「かけがえのない自分」だとか言われて「癒される」のは、競争社会・成果主義に疲れ切った大人だろう。社会の中では、自分が塵ほどの価値もないことを実感している者にこそ響く言葉である。

己が何であるかを自覚する、あるいは自己を肯定するのは、その足跡に依らなければ他者との比較に依るのはきわめて自然だ、鈍感でなければ。

学校というのは、結局人の集まりにすぎないが、そこに集まる人にはある種の共通項がある。血縁集団とは違った、意識的・自覚的なものだ。それを校風などと言う。
その校風をいかにアピールできるかが学校経営の勝敗を握る。勝者の典型は慶応である。

 光あふるる三田の山 我らが庭に集いたる 希望に充ちし若人は 独立自尊の城南健児(慶應賛歌)

よく考えれば矛盾している。個人の尊厳は、あらゆる属性から離れた個々の人間性に帰すべきものである。独立自尊と言いながら組織に寄り頼むのは大きな矛盾である。

しかし、矛盾を矛盾と思わせないところに組織の強みがある。そこに安住する慰安を得た者はそれでいいが、そうでないものは慰安を求めてさまようことになる。
さまよった結果何になるかというと、Yahooとかミルクカフェの掲示板で書き込みをするか「間違いだらけの・・」とかを書くとか、相変わらずアイデンティティを求めてさらにさまようことになる。

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ど素人・一般人

タモリという人は、芸能界で生き抜くために非常な努力と気配りをしているように思える。
流行っていればたとえ音痴なガキでもほめちぎる。ある程度は分かっているとは思うがその本心を隠して持ち上げる態度は彼一流のものがある。
その反動か、非芸能人に対しては「ど素人」「一般人」などと言う。接する態度も冷淡である。客もそれを喜ぶ。自分の置かれた立場など関係ないのだろう。生の空気に接することで、芸能人側にいるような錯覚に陥っているのかもしれない。

素人であるのは事実。一般人であるのも事実。ただし、それは前提条件があって成り立つものである。
一般とは「それ以外」。運動選手に対して、学者に対して、市場の人に対して...様々な前提条件があり得る。そこを了していないと浅薄・軽薄に見える。決して傲慢ではない。本人がどう思うかはともかく。

「ど素人」「一般人」と言った相手が「河原者」「河原乞食」と言ったらどう思うだろう。
誰か言ってやってほしい。

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空気の読めないやつ

嫌な言葉だ。他人を一方的に非難するために使われやすいからだ。

芸能人がTV番組で使っているのを耳にしたことがある。それは別にいいだろう。大人だし同業者同士。しかも、限られた時間と空間で、曰く言い難いことをこの一言ですませられ、相手もそれほど傷つかない便利な言葉だ。
「素人」が見る番組でこういう言葉を使っていいのか。「いい」と言うだろう。受け取る側の問題だから。たしかにそうだ。そういうのを容認している社会が前提となっているからだ。
しかし、また一方で送り手側の品性の問題でもある。芸能人に品性を期待していないから容認されるという面もある。仲間内の言葉は公の場では意識して避けるものだ。それが普通の大人ではないか。

子供が「あいつは場の空気が読めない」などと口走る。
おかしな話だ。言葉によるコミュニケーションを通して、お互いの主張や心情を理解し、その積み重ねによって様々なコミュケーションの方法を身につけていくのではないのか。
それにそういう言葉を使うのは、その子自身のエゴが満たされないだけなのではないか?
さらに悪いことにいじめの口実にまで使われる。いじめに正当な理由などあるわけはない。だから、根拠の曖昧なこういうフレーズが使われやすいのだ。

いや、大人でも同じだ。自分の気に入らないことを他人のせいにする時に使われることがある。一方的な話だ。こういうのはムラ社会とどう違う?

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あんたには希望がない

ニュースを聞いて、私の家族は何を考えただろうか、と思った。

母は、どこの家庭でも起こりうるが、歯科大を目指していたことと、今だから起こったことだというようなことを言った。
するどいな、と思った。
受験を控えた心理、中でも挫折と敗北感を経験している人間と、競争を巧に避けて自己の自尊心を傷つけられずにきた人間とが同じ空間にいることの危うさを知っているからだ。
兄弟間のことは、良くも悪くも両極端に進むことがある。信頼もあれば怨嗟もある。しかし、「兄弟は他人の始まり」というように、それぞれ新しい家庭の利益を最大限に主張するようになっても、他人事と処理する。
そこまで大人ではなかったのだろう。そして「方法」を知っていた。
まあ、そんな解釈なのだろう。

姉はどう思っただろう。ぞっとしたのではないだろうか。

あのような凶行に及ぶなどということは、もちろん異常なことだと思う。どこの家庭でも起こりうるというのは兄弟など家族間の確執を言っているのであって事件そのものではない。家族であるがゆえに無自覚に相手の心を大きく傷つけることがある。これは間違いない。
しかし、そのように傷つき傷つけながらも社会生活を営んでいくのが人間である。つかみ合いの喧嘩ぐらいはするだろう。そこで親や祖父母が諭していく。そうして何代にも何十代にもわたってきたのではないだろうか。

珍しくマスコミが「心の闇」と言わなかった。(実際は言っているのかもしれないが)ある程度理解できるからではないだろうか。

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言葉の男女差

基本的に服装と同じだと思っている。

男女差が生じやすいかどうかは言語の構造によるのか、言語文化によるのか分からない。
日本語の性差から考えると、助詞のような単位があることが重要なように思えるが、果たしてそれが言語一般に敷衍できるかどうか不明。

男女差を強調するのは生殖と関係するらしい。しかし、それが何らかの形をとるかどうかは簡単には言えないようだ。(フロイト的決めつけは魅力的だが同時に反感を覚える)
まして言語に関して言えば、音程以外に何が生殖と関係する?

文化とは説明しにくいものだ。ある人は性に、ある人は気候に、またある人は....

混沌としたものに理由付けをするのは魅力的だ。しかし、胡散臭さもある。そこで「複雑系」などというものが登場してみたりする。

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