« September 2006 | Main | November 2006 »

October 2006

いじめ自殺

床屋に行ったら、「今日は朝からいじめのニュースばっかりでしたね」。
私はこんなことを言った。

いじめを防止する方法は、常時隈無く生徒の行動をカメラで監視するしかない。とんでもない人権侵害だと言う人がいるだろうが、いじめられている当の本人はそれくらいしてほしいと思っている。どちらにも都合のいいことを言う人は結局どちらの味方でもない。いじめられている人はそんなやつを信用しない。

いじめる側は、それを正当化する論拠を持っている。大人から見ればきわめて手前勝手な論理、口実であっても、「くさい」「きたない」「うざい」「めざわり」「のろい」「じゃま」...と排斥する理由を持っている。それを与えているのは、大人である。教師である場合もあれば、地域の大人であることもある。親は教師、教師は親を批判するが、どちらもあるだろう。共犯関係とは言わないが、教師も地域社会の大人の一人であるから、ひっくるめれば地域の大人がいじめの論拠を与えていることに間違いはない。

かつていじめ自殺が大々的に取り上げられたがそこから全く教訓を引き出していないように思う。いじめは昔からあったが自殺はここ20年くらいだろう。なぜ子供は自殺という手段を選ぶようになったのか。そういう議論は聞かれない。せいぜい「命の尊さを・・・」と言うのみだ。これは全く見当外れだ。「一人の命は地球より重い」。だったとしたら、自分の命を引き替えに地球をひっくり返そうと思っても不思議はない。
ところが、一人の個人が消えても相変わらず山手線は回り続けているし、中央線は真ん中を通り続けている。「あなたが死んでも悲しむのはあなたの愛する親だけで世間はなんともない。平気のへーだ」と本当のことを言うマスコミは無い。一時期だけ、反論できない者を血祭りにあげて、祭りのように騒ぎに騒いで、次の瞬間芸能人のゴシップを流す。
春秋の筆法で言えば、マスコミが殺したのだ。子供の自殺に意味づけを行ってきたのはマスコミだ。だから、なぜ子供が自殺という手段を選ぶようになったのかという本質的な問いを発しない。

「それでも亡くなった子供の気持ちをわかってあげて...」
本当にそう思っているのか?自分だけ善人になろうとしているのではないのか?近松ものを見るように事件を見ているのではないのか?
当事者以外、自殺に意味づけを行ってはいけない。

| | Comments (5) | TrackBack (0)

校歌 ~愛

 春の日の 花と輝く うるわしき姿の いつしかに あせてうつろう
 世の冬は 来るとも わが心は 変わる日なく  おんみをば 慕いて
 愛は なお 緑いろ濃く わが胸に 生くべし

 若き日の 頬は清らに わずらいの影なく 御身 いま あてにうるわし
 されど 面あせても わが心は 変わる日なく 御身をば 慕いて
 向日葵の 日をば恋うごと とこしえに 思わん

アイルランド民謡と言われるこの歌は、かのThomas Mooreの詩になる'Bilieve Me'だ。
訳詞は堀内敬三によるが、原詩の趣を損なわずかつ日本語として美しい詩である。この歌詞無くしては日本で親しまれることもなかったかもしれない。
この歌を知ったのは高校一年の音楽の授業の時だった。
アイルランド音楽を10年ちょっとやっているがこの曲をやったことは一度もない。いつかやるときが来るかもしれないが、それは特別な時だろう。それほど私には大切な宝物である。

この歌はハーバード大学の校歌と言われる。
外国の学校の校歌の状況はまだ調べていないが、日本の教育制度を受け継いだアジアの国の中には校歌のあるところもあるらしい。
映画「チップス先生さようなら」の中でパブリックスクールの校歌が歌われる。「世界に愛を」という訳が付いていたと記憶している。美しい歌だった。
「愛」はキリスト教の理念であるから、キリスト教社会の建前として校歌に歌われるのは自然なことだが、この「愛」はどの愛なのだろう。つまり、εροσなのかφιλιαなのかαγαπηなのか、はたまたcaritasなのか、そのいずれでもいいのか。(ちなみに、英語のloveはゲルマン語系統らしい。したがってこういうことを詮索するのは無意味かもしれない。)そう思うのは儒教的道徳観がまだ残る時代に学校生活を送ったからかもしれない。

 愛の花 信の実を 天なる御神に 献げん (金城学院校歌)

キリスト教の学校らしく「愛」の一文字が見られるが、これは普通現代の日本人がイメージする「愛」と同じものではないだろう。つまり「神への愛」である。

 愛の魂正義の心  朝に夕べに鍛えつ錬りつ 邦家に捧ぐる我等が母校 (立教大学校歌)
 愛と誠を もといとたてつ 新しき道 先きがけ行かむ (麻布学園校歌)

こちらも同様、言ってみれば人類愛みたいなものだろう。高校以降、学校は学問の教授と人格の陶冶が主たる目的になっているようで、校歌にもそれが現れる。
麻布の校歌は上記の歌詞の前に「蓬にすさぶ人の心を矯めむ麻の葉かざしにさして」とある。これはおそらく「荀子」から引いたものだろう。優れた人と交わると自然と人格が磨かれるというような意味だ。

「愛」は、古代「めぐし」などと訓読されることが多く身近な親子や夫婦の愛情を指した。「欲」の意味の仏教語がその後広まり、近代になって西洋文明の「神の愛」が流入した。キリスト教徒とは直接関係なくとも一種崇高な理念を表す言葉として定着していったようである。

では、「愛」の概念は西洋文明によってもたらされたものだろうか。
私はそうは思わない。古代から日本人の心にあったものが、また再び形を得たのだと思う。
日本の教育現場で普通に考えるところの愛を歌ったものはないのか。

 我が君は 千代に八千代に 細石の巌となりて こけのむすまで

これは愛する人の長寿を祈った「古今集」の歌だ。「君が代」のもとはこのようなものだ。もちろん、「君が代」は天皇の御代を言っているのであろうから、ことさらに「君が代」は愛の歌だなどと言うつもりはないし、学校現場で歌うのがいいとも思わない。
しかし、私と同世代である皇太子の家族に対する言葉や表情には、純粋で素朴な愛のまなざしが感じられる。

| | Comments (20) | TrackBack (0)

美化語

文化審議会国語分科会の敬語小委員会は、敬語の分類を改めて、謙譲語を二つに分類し、「美化語」を加えた。

謙譲語の方は、まあいい。「電車がまいります」「雨が降ってまいりました」なんてのは謙譲じゃあない。単に丁重に言っているだけだ。
だが、「小社」をここに入れたのはまずい。「弊社」はどうなる?やはり謙譲の意があるんじゃないだろうか。

じゃあ、丁重語と丁寧語はどう違う?
「電車がまいります」は「電車がくる」を丁寧に言っているだけ。つまり聞き手に対して気遣っているわけで、丁寧語と変わらない。しかし、完全に丁寧語と同じかというとそうではない。主語に制限がある。やはり敬意を払うべき人物を持ってくるわけにはいかない。

謙譲語というのは難しい。今後退化していくのではないかと思う。現状においては、「参ります」のような同一の形態をわかりやすく説明するために謙譲語を二つに分かつのはそれなりに納得できるし、上記のような理由で謙譲語の下位分類とするのは分かる。

美化語はどうだろう。

美化語という言葉はずいぶん前から使われてきた。代表例が接辞の「お」だが、別に丁寧語でいいんじゃないのか?丁寧語に入れたくないのは、聞き手に対する直接的な敬意ではないからだろう。それはよく分かるが、そうすると「お」はどこに所属するのだろう。

たとえば、「お」には所有者に対する尊敬語的な用法がある。「お手紙」「お電話」などのように受け手に対する敬意を表す、謙譲語的な用法もある。また、話し手の品性保持の機能もあり、これを美化語と称する説はかなり前からあった。
ここで「お」に四つの用法を認めると、動詞の場合とパラレルではなくなる。

問題はカテゴリーとはどう設定すべきかにあって、一次元的に三分類を五分類にしてすむことではない。
大雑把なな言い方だが、敬語は、「聞き手」や「場」に対する慮りと「話題の人物」に対する慮りの二つの分類が最上位に据えられてきた。単純に言えば、文法的操作において主語が誰かということが関係するものとしないもので、前者が尊敬語・謙譲語で、後者が丁寧語と分類されてきた。語彙的なレベルにおいては、「所有者」が誰であるか関わる場合と、関わらない場合とで、やはり同様に分類される。(これは松下大三郎の説によっているところが大である。実は議論が収束したわけではないが、一応こう言っておく)

美化語はどう位置づけられるのか?聞き手に上品な印象を与えるために使われるというが、丁寧だから上品なのではないか?丁寧語と別範疇とする積極的な理由がどこにあるのだろうか。もっと言えば、尊敬語や謙譲語を用いることも、話し手の品性保持と関係するとも言える。
美化語をどう定義しようとしているのか詳しいことは分からないが、聞き手に上品な印象を与えるために使われるのなら丁寧語と差はなく、話し手の品性保持ということなら、これは他の三種とは根本的に異なり、敬語という範疇を拡大させるものだ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

結婚できない男

結婚できない男とは

 女性に拒否されるような、甲斐性も魅力もない男。
 何らかのトラウマで結婚に踏み切れない男。

のどちらかだろう。
選り好みしているのは「できない」のか「しない」のか判然としないが、たいがい「理想が高いから結婚できない」と言われるようだ。これは明らかに間違いである。理想が高いのではなく、引き替えるべき対象と認めないからである。つまり、結婚によって生じるメリット・デメリットを天秤にかけたとき、どちらを取るかだけのことで、抽象的な「理念」が存在しているわけではない。もちろんすべてとは言わない。

男性の独身はネガティブに言われがちだ。「一人の女もものにできないのか」と。
一方、女性の独身は「自由」とか「自分らしさ」とか、ポジティブな語を伴って語られる。

これは一面の真理をついている。女は子孫を残さなくてもいいが、男は残さなければならない。そもそも女は子孫を残すモティべーションは男に比べて低い。
猿山の猿を思い浮かべれば分かる。強いオスは他をけちらかして自分の遺伝子を残すために多くのメスと交わる。リスクを減らすためには数打つことが必要という単純な理由だ。一方メスは優秀(何が優秀かはともかく)な遺伝子を受け入れるために強いオスを受け入れる。
ところが一夫一妻となると、双方の「リスク」が増大する。これは皇室の現状をみれば明らかである。

子孫を残すことだけが結婚の目的かというともちろんそれは違うだろう。
両親を見て子供は自分の心の中にそれを夫婦のモデルとする。ただの子を産む装置、家政婦としてしか見ていない男、男を養育者としてしか見ない女、そういうケースもある。それによってどんなモデルを脳内に形成するかは分からないが、結婚にポジティブなイメージを抱くかどうかは家庭環境が大きいだろう。

遺伝子保存の本能と、自分の生活とを天秤にかけたとき、そのメリット、デメリットを考えるのは男も女も同じで、女性の方が失うものが多いように言われるのは、社会が女性の労働力を必要としているからだ。そして、男は本音であっても表向き「結婚したくない」などとは言えないものだ。サルではないから。

結婚できない男。それは、結婚しない女とさほど変わらない。視点をどうシフトさせるかの違いだ。

古代の貴族の男は嫁をとらなかった。合理的なシステムであった。少なくとも多くの男にとっては。
つい最近までは、男女とも自由意志は通らなかった。親が決めた結婚に従う他はなかった。
そのようなシステムが崩壊、いや、そのような封建的な状態から抜け出せたのだから喜ぶべきことではないか。その結果少子高齢化社会がおとずれようと。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« September 2006 | Main | November 2006 »